令和元年 六月 五雲会のメモ2 鵜飼

ひと月前の五雲会の感想を、思い出しながら書きます。同日の加茂の記事はこちらです。

鵜飼
シテ:澤田宏司 ワキ:御厨誠吾 ワキツレ:野口琢弘 間:前田晃一 笛:熊本俊太郎 小鼓:住駒充彦 大鼓:柿原孝則 太鼓:金春國直 後見:宝生和英 佐野由於 地謡:金森秀祥 東川光夫 野月聡 佐野玄宜 金森良充 朝倉大輔 藪克徳 上野能寛

囃子方居つくを見て笛構え、幕揚がるをみて、六の下にてアシライ、ワキ常座に着き、寄せ笛をアシラウ、以上名宣笛。ワキツレは一の松に下に居し、脇の名宣り、大小皷構え、コイ合出しでのアシライふたクサリあってヲトシ、改めて道行にてコイ合打出。

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またいつもの脱線ですが、一般にワキの道行(広義には上歌)は名宣りから接続されることが多く、多くの道行の直前には打切という手を打つのですが、打切の高級版として、ツヅケを打ってから打切を打つ、笠の打切となる場合もあります。
まず、真脇能のワキ道行前は必ず笠の打切です(必要的笠の打切)。
笠を着たワキ道行前、あるいはワキツレを従えたワキ道行前、の多くの場合は笠の打切です(任意的笠の打切)。
鵜飼はワキツレを従えているため、笠の打切の要件を具備しますが、実演上は名宣りからサシを経由して道行になるため、一旦サシアシライとなりワルツヅケよりヲトシとなり、そもそも打切を打ちません。名乗りからサシを経由して上歌となる類例は金札、経政、和布刈などいくつかありますが、経政では、サシアシライをヲトシた後は別に謡の中に打出となるので、この場合も打切はありません。ところが、金札、和布刈はサシアシライからツヅケ、打切となるため、打切となります。これらの例から推測すると、名宣り~サシ~上歌となる場合、一般には打切にせず、脇能の場合は打切となるのかも知れません。脇能に位を持たせるための措置と考えられます。

ここまで書いてまだ謡本の1ページ目なので、シテの登場に飛びます。
道行すみて大小皷ヲキ、所の者であるアイとの問答となり、川崎の御堂に一夜の宿を借りる態で、ワキがワキ座、下座へワキツレ下ニ居するをみて、一声となりシテの出、シテは松明を持ち、扇を腰の左背面に差した状態です。

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本物の松明は、酸素を供給することで火勢を維持します、酸素を送り込むために松明を振るわけです。能でもこの所作を踏襲します、招き扇を応用した型ですが、火の粉を被らないように、身体から松明を離して振ります。

二の松で松明を一振り、太鼓座から常座へ入る際に二振り、常座でフミトメるをみて大鼓シカケ、シカケを聞いて松明を高く掲げ、コイ合となりシテ「鵜舟にともす篝火の、と一声をあげ、打上ヲキを聞いてサシ謡い出し、詞で一旦大小ヲキ、クドキ様のサシ拍子謡の中にワルツヅケで打出してスグにヲトシとなり、下歌。

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この一声で「鵜舟にともす篝火の、となっている点ならびに、下歌に「かひも波間に鵜舟漕ぐ、とある点などが先日の記事でシテが鵜舟に乗っていると断定した根拠となります。「鵜舟」というキーワードは以降、何度か登場します。後段の鵜之段は徒歩鵜の仕方と思われるため、不整合ですが、不整合でも敢えて「鵜舟」を出した作者の狙いはいづれ考察予定です。
下歌トメに、シテはワキの存在に気付いた態で、松明を掲げながらワキ座へ向き直り、しばし問答ありて、語リの段となり、シテ正中に下ニ居て語リ。
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語リにて松明を一旦舞台に置きますが、松明の火が消えないように松明のお尻側から丁寧に寝かせるように置いていました。
語リの中に合掌などの型あり、カカリ謡中ヨリ拍子合いとなり、無声コイ合、キクヤドメ。さてワキがシテに仕方話を促す態で、鵜之段。能と仕舞とで異なる点は、まづ、湿る松明を振り立てた後、松明を逆手に持ち替え、右手にて左袖を捲り、左手にて腰の背面に差した扇を逆手にて取り、右手の松明を右手のみでひっくり返して順手に持ち直し、逆手状態の左手の扇を右手を介添えして順手に取り直し、常の如く両手にて鵜籠を開く型、となります。松明を逆手に持ち替えるのは、左袖を捲る際に水衣に着火しないための措置でしょう。しばし、仕舞と同じ型のまま進行し、「月になりぬる悲しさよ、にて常は高ク見より一足引いてクモリのところ、高ク見より一足引き乍、扇と松明を取リ直シの如く両手で持ち直し、両手で扇と松明をステ、改めて双手シヲリとなっていました。鵜之段のトメは常座にてヒラキとなり、そのまま中入となります。
間狂言、石和川の水草に鵜を使った痕跡があることが決め手となり、鵜使いの翁が糺されたことなどを語リ、シテを弔う態で、ワキ待謡、トメにて太鼓半打出より早笛。
金春流太鼓の鵜飼は超高速のイメージでしたが、今回は中庸的な速度、鵜飼の早笛の出之段は幸流小鼓に七ツガシラの手もあるそうですが、今回は普通に段頭打下。
さて幕揚がり、シテの出、常の装束は法被ですが、今回はモギドウでした。一ノ松にて正をウケ一足出て太鼓上ゲて打上、以下橋掛かりにて謡あり、「法華の御法の助け船、と太鼓の頭スリツケを受けて橋掛かりを歩んで舞台に入り、大小前からスミを通って舞台を一巡して大小前に戻り、「千里が外も雲晴れて、と翔に似た拍子(うろ覚えですが、拍子二ツ、正へ出てノリコミ拍子だったと思います)があって、「真如の月や出でぬらん、とスミ柱高ク見る型などあったと思います(記憶曖昧)。
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この辺り、融に似た趣向です。月に比重を寄せた詞章や型の共通性、また打上前(融では早舞の前)の太鼓の手が付頭打ち行きである点、後シテの出の謡の中でコイ合をシカケて打切ったあと、頭スリツケ(スリツケは必然的な手ではなく、恣意的な手)を打つ点など、多く共通性を感じます。月が鵜飼の後場のキーである可能性については観世流に「真如之月」という小書がある点からも拝察されます。
個人的には今回の鵜飼を観ながら、以前観た融遊曲を思い出しました。当時、融遊曲は翔的な要素のある小書であると感じましたが、鵜飼の後シテの上述の翔に似た拍子という点も、繋がっていると感じました。
この辺りのまとめはいづれ、融は何故五番目なのかという考察として、稿を改めたいと思います。
さて、太鼓打上て留の撥、諷頭打切の中にシテ常座に下がり、打切を待ち、地謡を受けて振り返り正へ出、以下仕舞の通り進行し、トメ。
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感想として、シテは謡の調子の高低をかなり丁寧に一句づつ位取りされていたのが印象的でした。また、松明の振り方が稽古で習ったものとは若干異なりましたが、宝生流のベテラン先生の振り方を参考にされたようです。キリは前場で居眠りしていた見所も目を覚ます迫力でしたが、なんでも力強くという訳ではなく抑えたところもあり、品格を感じました、力動風ではなく砕動風といった感じでしょうか。全体に充実の舞台でした。

次の澤田先生の舞台は10月19日(土)の五雲会にて「葵上」です!(宣伝)

さらに杉先生の杉信の会8月2日(金)が上述の「鵜飼 真如之月」です!(宣伝)

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