ひと月前の五雲会の感想を、思い出しながら書きます。同日の加茂の記事はこちらです。
鵜飼
シテ:澤田宏司 ワキ:御厨誠吾 ワキツレ:野口琢弘 間:前田晃一 笛:熊本俊太郎 小鼓:住駒充彦 大鼓:柿原孝則 太鼓:金春國直 後見:宝生和英 佐野由於 地謡:金森秀祥 東川光夫 野月聡 佐野玄宜 金森良充 朝倉大輔 藪克徳 上野能寛
囃子方居つくを見て笛構え、幕揚がるをみて、六の下にてアシライ、ワキ常座に着き、寄せ笛をアシラウ、以上名宣笛。ワキツレは一の松に下に居し、脇の名宣り、大小皷構え、コイ合出しでのアシライふたクサリあってヲトシ、改めて道行にてコイ合打出。
まず、真脇能のワキ道行前は必ず笠の打切です(必要的笠の打切)。
笠を着たワキ道行前、あるいはワキツレを従えたワキ道行前、の多くの場合は笠の打切です(任意的笠の打切)。
鵜飼はワキツレを従えているため、笠の打切の要件を具備しますが、実演上は名宣りからサシを経由して道行になるため、一旦サシアシライとなりワルツヅケよりヲトシとなり、そもそも打切を打ちません。名乗りからサシを経由して上歌となる類例は金札、経政、和布刈などいくつかありますが、経政では、サシアシライをヲトシた後は別に謡の中に打出となるので、この場合も打切はありません。ところが、金札、和布刈はサシアシライからツヅケ、打切となるため、打切となります。これらの例から推測すると、名宣り~サシ~上歌となる場合、一般には打切にせず、脇能の場合は打切となるのかも知れません。脇能に位を持たせるための措置と考えられます。
ここまで書いてまだ謡本の1ページ目なので、シテの登場に飛びます。
道行すみて大小皷ヲキ、所の者であるアイとの問答となり、川崎の御堂に一夜の宿を借りる態で、ワキがワキ座、下座へワキツレ下ニ居するをみて、一声となりシテの出、シテは松明を持ち、扇を腰の左背面に差した状態です。
二の松で松明を一振り、太鼓座から常座へ入る際に二振り、常座でフミトメるをみて大鼓シカケ、シカケを聞いて松明を高く掲げ、コイ合となりシテ「鵜舟にともす篝火の、と一声をあげ、打上ヲキを聞いてサシ謡い出し、詞で一旦大小ヲキ、クドキ様のサシ拍子謡の中にワルツヅケで打出してスグにヲトシとなり、下歌。
金春流太鼓の鵜飼は超高速のイメージでしたが、今回は中庸的な速度、鵜飼の早笛の出之段は幸流小鼓に七ツガシラの手もあるそうですが、今回は普通に段頭打下。
さて幕揚がり、シテの出、常の装束は法被ですが、今回はモギドウでした。一ノ松にて正をウケ一足出て太鼓上ゲて打上、以下橋掛かりにて謡あり、「法華の御法の助け船、と太鼓の頭スリツケを受けて橋掛かりを歩んで舞台に入り、大小前からスミを通って舞台を一巡して大小前に戻り、「千里が外も雲晴れて、と翔に似た拍子(うろ覚えですが、拍子二ツ、正へ出てノリコミ拍子だったと思います)があって、「真如の月や出でぬらん、とスミ柱高ク見る型などあったと思います(記憶曖昧)。
個人的には今回の鵜飼を観ながら、以前観た融遊曲を思い出しました。当時、融遊曲は翔的な要素のある小書であると感じましたが、鵜飼の後シテの上述の翔に似た拍子という点も、繋がっていると感じました。
この辺りのまとめはいづれ、融は何故五番目なのかという考察として、稿を改めたいと思います。
感想として、シテは謡の調子の高低をかなり丁寧に一句づつ位取りされていたのが印象的でした。また、松明の振り方が稽古で習ったものとは若干異なりましたが、宝生流のベテラン先生の振り方を参考にされたようです。キリは前場で居眠りしていた見所も目を覚ます迫力でしたが、なんでも力強くという訳ではなく抑えたところもあり、品格を感じました、力動風ではなく砕動風といった感じでしょうか。全体に充実の舞台でした。
次の澤田先生の舞台は10月19日(土)の五雲会にて「葵上」です!(宣伝)
さらに杉先生の杉信の会8月2日(金)が上述の「鵜飼 真如之月」です!(宣伝)