大小の手附と言うのは、多くは観世流の謡に準拠して作成されているようです。
宝生流の謡を習っている人が八割の手附を相手にして苦戦するのは、下の句四文字の場合の辻褄の合わせ方の違いと、ヤヲハのトリではないかと思います。
下の句が字足らずの場合、観世流と宝生で下の句の節(というより間の使い方?)が異なるので主に小鼓を習っている方は苦戦する印象です。
そして個人的に不思議なのが、ヤヲハのトリで、実は宝生流では平ノリに当ヤヲハのトリを使うこともかなり多いのですが、観世流はほとんどヤヲハ(聞くヤヲハ)のトリを用いるようです。
もちろん修羅ノリ風の場所では当ヤヲハもあるのですが、純平ノリ部分では稀な気がします。違いの生じる理由は良く分かっていません。。。
面白いのは宝生流の謡本では聞くヤヲハも当るヤヲハも、どちらもヤヲハと書いており、表記を一切区別しない点です。(初級謡本のみ例外)
したがって、知らない謡を相手にする場合などは、常に計算というか考えながら謡っています。
宝生流ではヤヲハで始まる句の文頭が増節(都合二音以上となる節)であれば、99%の確率で当ヤヲハになります。僅かな例外というのは一部の修羅ノリに見られ、俊成忠度キリ「山桜かなと〜、春日龍神後「また持法緊〜、鵺キリ「弓張り月の〜、など稀に登場します。
いずれも文頭は増節ですが、上の句が二文字であること、二文字目にモチがあることからパターンとして覚えて、聞くヤヲハに扱います。
逆にヤヲハの句の文頭に増節がなければ、99.9%の確率で聞くヤヲハです。こちらはほぼ例外がないですが、花月キリ「雲に起き伏す〜、船弁慶道行「神ぞ知るらん〜、などに僅かに例があります。ただし、パターンを見出し難く、個別に覚えておく他ないと思われます。
(ほか、雲雀山クドキ「余所人はいかで訪ふべき〜、も変則的ですが文頭が増節ではない当ヤヲハと言えるかも知れません。)