令和元年 第二回 七宝会公演のメモ

七宝会のメモ。個人的趣味により、主に、どこでどのような型があるか、どのような囃子が入るかといった、謡本から読み取れない情報に注目してメモ。そのため、狂言「口真似」に関しては知識不足のためメモは割愛。舞台は初見でしたが、とても面白かったです(笑)

舞囃子 「柏崎」
広島栄里子 笛 貞光訓義 小鼓 成田奏 大鼓 大村滋二 地謡 玉井博祜、田村恭、石黒実都、 岡本知子
初見。シテ:全体に構へがしっかりしていた、柏崎のシテとしては強すぎるかも知れないが、個人的には好みの構ヘであり、肘のテンションの掛け方は得るものあり。左手の親指が終始立ち気味であったことと、瞬きの回数が多いことは気になった。特に型を極める前後での瞬きが多かった様子。当日の会場はやや乾燥気味であったことも一因か。
型としては「罪障の山高く、生死の海深し、と高ク見、下ヲ見は囃子は扣の手を打ち、地とシテの心持ちに委ねられた。はっとさせられたのはシテの型がしっかり極っていたためか。大小がコス手を打つ「是三無差別、の身ヲカヘはさりげない型であるが、ハコビを大事に扱っていた。見せ場である「宝の池の水、功徳池の濱の真砂、は二ツ招キ差廻シ見廻シはシテ、地謡ともに心持ちあり、阿弥陀経の世界を感じた。二段のアゲハ「本願誤り給はずは、〜トメまでは、段々と感極まるシテに狂女物の醍醐味を感じた。ただしアゲハの拍子を第六拍に踏んでいたのは少し違和感あり。「称名も鐘の音も、のサシワケも心持ちあり極まっていた。
地:「臺に至らん、にて外れかけた。ハリ節の位置が「い」「た」で混同されてしまったことが原因と思われる。その他「己心の弥陀如来、は囃子はカケ切、三地であったが第五拍は大に扱っていた。
囃子:大倉大鼓の手はあまり知らないので勉強になった。葛野では序盤のツヅケを扣で代用するところ、大倉ではかなり序盤からツヅケを打たれていた(「猶人間の妄執の、から)。「功徳池の、のあたり大鼓は特殊な手は打っていなかったように見えた。(葛野は刻返、トリ、ヨーイ△△)。宝生のクセ舞では「道様々の、のような六拍子は大抵、大小がコイ合三地を打つ句に踏むが大倉はツヅケであった。幸流小鼓は「身三口四意三、の刻落は身三、口四、意三と聞こえるように打たれていた。具体的には口四、とハメたあと、僅かに心持ちあって意三と打ち改めていた。「煩悩の絆に、「若我成仏、などの手も鮮やかだった。笛は会釈のみである。アゲハの後の会釈はクリ節の辺りで吹き出すことが多い印象であるが、今回は「三界一心なり、とクリのない位置から吹き出していた。クリ節に関わらず、大鼓のカシラを受けたら吹き出すということなのかも知れない。この辺り、不勉強。

やまだ
全体に、徐々に盛り上がって行く狂女物の面白さを味わえる舞台であった。また、構ヘの肘に発見があった。

能 「藤」
シテ 辰巳孝弥 ワキ 広谷和夫 ワキツレ 中村宣成 アイ 上吉川徹 笛 貞光訓義 小鼓 成田達志 大鼓 森山泰幸 太鼓 上田慎也 後見 玉井博祜、石黒実都 地謡 辰巳満次郎、佐藤耕司、澤田宏司、辰巳大二郎、辰巳和磨、渡邉珪助、畑宏隆、木下善國
初見。作り物を出す場合は次第の前に出しますが、今回は直ぐに日シギあって次第、段はとらず出の段、ヨセルツヅケはもう1鎖早く打つか打たないかで大鼓の駆け引きがあった様子。香里能楽堂は橋掛りが短いので、役者が一の松やシテ柱、常座に到着するのが早いためであろう。
ワキの道行すみて、ワキ一首あり。呼び掛け〜和歌はシテに声量あり、感服。ロンギの中に「かへさの雁の居る雲の、と脇正高ク見、「松にかかれる藤の花の、と小先を見込ム型。このところ、作り物を出さざるは無念。
間狂言の笛会釈の見計いは完璧。後場となって待ち謡、一声、スグに幕揚げの手。常座にて謡。一声は賑やかな囃子であり、特に藤のシテ謡は下調のため、上調の謡に較べて十分な声量が必要であるが、今回のシテは問題なかった。面のウケは前場よりも高かった印象。後の初同は打切りにグアイ拍子あり、「開くる心の花なれや、と左袖を払う型が印象的。トメから打掛二ツカシラオロシありて、クリ。サシはユウケンあり、巻絹と同様。クセは仕舞と大きく変わる箇所なし。但しグアイ拍子は打ち切りに打つ。地謡が「浦吹く風に、で地が割れたのは前列の一部が「う」にモチを入れたため。序之舞は総じて軽めであり、楽しげであった。キリは「羽袖を返すで、キリにて袖を翻す型。龍田などと同様。

やまだ
全体にシテはハコビが丁寧であり、幽玄であった。松の作り物があるとロンギは猶良かった。呼び掛け〜一首を詠むまでの心持ちはとても勉強になった。

能 「天鼓」
シテ 山内崇生 ワキ 喜多雅人 アイ 善竹忠亮 笛 左鴻雅義 小鼓 荒木健作 大鼓 大村滋二 後見 田村恭、広島栄里子 地謡 辰巳満次郎、澤田宏司、辰巳孝弥、辰巳大二郎、辰巳和磨、徳永力雄、伊東静夫、堀口雅一
初見。太鼓臺出し、幕が上がった後、行の名乗笛にてワキ登場。名乗笛は六ノ下に中高音を加える場合(+αでユリの手)があるものの、今回は六ノ下のみ。これは橋掛りの長さではなく、役柄に拠るもの。一連の文句あり、「私宅へと急ぎ候、とあって常座よりワキ座へ向かい、下に居るを見て一声の日シギ。舞台が乾燥していたため、日シギは吹きにくそうであった。一声はスグに幕揚げの手。シテは三ノ松にてフミトメて正をウケ、謡出し。一声を打上てヲキ、サシ謡。打上はシヲリがあったかも知れない。サシの打切は常の手、下歌、上歌とあって、上歌中に「忘れぬよりは〜、と打切あって、字句よりワキ立ち上がり一の松へ漸次移動。「命のみこそ恨みなれ、とトメの中にシヲリあり、謡い終わって、ワキが呼び出し。以下、シテワキの応酬あり。「いやいやこれも心得たり、と正をウケて自問的な心持ちあり。「あら嘆くまじや、とクモリ、初同となってシテワキ舞台に入る。ワキはワキ座にあり、また舞台に登場しない帝はワキ座高め(見所正面)に座す設定。シテが覚悟を決めて玉殿に臨んだ後、次第、クリサシクセ。クセの謡は難しく、心持ちたっぷりで哀れなシテを描写できていた。トメでシヲリ。ロンギは型どころであり、「雲龍閣の光さす、と立ちて「老の歩みも足弱く、と3足右に出、「薄氷を、と正へ出。この間ワキは下に居にてシテの移動に合わせてシテの方向に膝をにじる。シテ太鼓臺から撥を抜きて「心も危うき此鼓、とヤヲハの引音を聞き、句読点で右撥一つ打つ型。「心耳を澄ます、と聞く心あり。ワキはシテが一つ打つのを見て、帝が心を打たれたのを察する態で正面に向き直り「君も哀れ、と帝に礼。シテは覚束なくなり、常座へユルメながら左、右と撥を落とし、下に居て合掌ドメ。帝、シテへ褒賞の儀、管絃講にて天鼓を弔うとの由。シテに一旦私宅へ戻れとの達しあり、アイはシテを立たせ、シテの腰を支えて介助しながら幕まで見送り、その間、軽い間語りの態で前場を要約。その後、管絃講のフレあって、ワキ立ち、太鼓臺を見込み待ち謡。一声済みて、シテ登場。シテ謡は前場と代わって朗々と。打上までが長い分、大小が多いにシテの登場を盛り上げる印象。シテも乗り込み拍子あり。シテワキ問答あって、後見に唐団扇を渡し、シテ太鼓臺より撥抜き出だし「同じく打つなり天の鼓、と右撥「ヅ」、左撥「ミ」と打つ仕方。楽の打ち出しは太鼓の中頭打ち出しのように謡のトメに右、右、左と撥を打ち、吹き出し。太鼓入りで言う所の付ガシラに合わせてシテはカシラ、ヲキ撥と打つ。オヒャー、ア、ロルラーでシテもコミを取っていた。打ち樣は金春流風であった。撥を持ったまま初段アゲハ前の打込まで舞い、撥を左手に2本束ね、後見に渡し、後見より左手に団扇を受け取り、右手に持ち替えてアゲハ。以後、常の楽。但し、正先に太鼓臺あるゆえ、トメの段ではスミトリでカザシた団扇が左ヘ廻リで臺に引っかからないように、低めにスミトリするといった工夫あり。キリは概ね常の通り、但し「人間の水は南 星は北に、でワキ座に向かうところは正先低めを狙っていた。前述のように、ワキ座まで出ると太鼓臺に(この場合はシテ自身が)引っかかるためであろう。波を穿つ型は、仕舞では波を巻き上げるイメージであったが、能では波を叩くような型であった。

やまだ
天鼓のように前場と後場でシテが異なる曲は前場でも何らかのクライマックス感が求められる。前場でしっかり尉の哀愁を表現できていたと思う、ヲサメた謡の中での句読点の心持ちに得るものがあった。
NO IMAGE